B.LEAGUE HERO's STORY「折茂武彦」#3
~interviewer 小松成美~
第1回、第2回はこちら第3回 すべては北海道のファンのために
未知の土地、北海道でプロに
小松:
2007年にトヨタを離れて、レラカムイ北海道に移籍し、プロ選手となった頃のお話を伺いたいと思います。トヨタを離れ、北海道の地へ旅立った折茂さん。その経緯を教えていただけますか。
折茂:
はい、まず、トヨタ自動車の時のお話をしますと、バスケの契約選手というのは、基本的に契約社員ですから、規約は社員となっていて、トヨタ自動車にいる限りは、完全なプロになることができなかったんです。そして、2007年、北海道でプロバスケットボールのチームができた時、「プロチームでプロ選手としてプレーするというのはどういう感じなんだろう」と思いまして、プロに動く心を止められませんでした。
小松:
そして、14年間在籍したトヨタ自動車を去ったんですね。
折茂:
はい、周囲は猛反対していたにもかかわらず、レラカムイ北海道に移籍したんです。 当時ヘッドコーチとしてチームを率いていたのが、東野智弥さんです。東野さんはトヨタ自動車時代のアシスタントコーチであり、私の同級生なんですよ。東野さんに熱心に誘われたことも移籍の大きな要因でした。
小松:
北海道という環境はどうでしたか。
折茂:
高校を卒業してから20年ほど、ずっと東京でしたから、それ以外の地で生活するという感覚は本当になかったですね。私は寒いのが苦手で、北海道なんて絶対ありえない、と当時は思っていたのですが(笑)、どうしてもプロという世界が見たい、プロでバスケットボールをしたい、という思いの方が圧倒的に勝っていました。
小松:
印象的なのは、折茂さんが北海道に移られて、最初にホームの試合で勝った時のコメントです。「プロとして北海道のファンの皆さんと喜びを分かちあえたことに、これまでにない幸福を覚えた」とおっしゃっていました。
折茂:
トヨタでプレーさせていただいた14年間で、選手として優勝も3回経験させてもらって、成長させていただきました。とても良い環境もいただきました。でも人として成長できたか、と聞かれれば、全く駄目だったんですよね。それはなぜかといいますと、バスケットボールは自分のためだけにやっていました。勝っても負けてもただ自分のため、という思いでずっとやってきたんです。
でも北海道に渡って、新規の小さなプロチームでプレーすることになり、そこの部分が大きく変わりました。札幌に行き、ホーム戦を迎えた時に、「こんなにたくさんの人が応援してくれているんだ」と気づいた。当時は決して強いチームではなくて、最下位のことも多かったのですが、それでもたくさんの方が応援してくださっていて、その時に自分の考え方が180度、変わったんですよ。自分のためにバスケットをするのではなくて、応援してくれている人のために戦うのだ、だからこそ、勝たなくてはいけない。心からそう思えたのです。翌日から、それまでとは別人の折茂武彦が誕生したんですよ。
小松:
北海道とそこで暮らすファンの方々が、折茂さんを生まれ変わらせた。
折茂:
その通りです。
プロとしてバスケをするということ
小松:
バスケットボールをプレーするのは、声援を送る観客のためだということに気づいたのは、北海道に来られてからなのですね。
折茂:
恥ずかしながら、そうなんです。プロになる前の私は、写真撮影やサインが正直に言うと嫌いだったんですよ。勝負に没頭しているときに、ファンサービスを頼まれると、イライラしてしまったり。本当に失礼な話です。プロになってからは真逆になりました。ファンの方々がいるからバスケットボールができるんだと、分かったからです。よく「顔つきが変わった」と言われますね(笑)。
小松:
トヨタ時代、どうしてそこまでファンサービスが嫌だったんですか。
折茂:
自分勝手だった。それに尽きます。周囲のことなんて全く考えていませんでした。だから会社の方にはいつも怒られていました。負けるとすぐ帰っちゃいますし、挨拶もしない。社員の方々が応援にきてくれているから、選手は勝っても負けても整列して挨拶をしなくてはいけないのに、私はさっさと帰ってしまっていたんです。ファイナルで負けると機嫌は最悪ですし、準優勝のメダルをかけられても外して投げてしまったり、スポンサーの看板を持って写真を撮るのも嫌で放り投げてしまったり、いつも周りをハラハラさせていました。
小松:
それは周りの方々は、相当扱いにくかったでしょうね(笑)。
折茂:
扱いにくいなんてもんじゃない、最悪です。何しろ「勝つ」ということしか頭にありませんでしたから。負けると他のことは全く考えられない状態でした。それぐらい勝負は絶対という気持ちでプレーしていましたから。驕っていましたね。北海道に来てから、バスケットボールができる環境に心から感謝できるようになりました。
小松:
ある意味、プロバスケットボール選手・折茂武彦は、北海道が育ててくれた、と言ってもいいかもしれませんね。レバンガ北海道の立ち上げも、北海道のために、という想いが強かったのでしょうか。
折茂:
そうですね、レラカムイ北海道の経営悪化であったり、東日本大震災であったり、色々なことがあったのですが、自分で選手と会社の代表を兼ねる決断をして、まったく新しいクラブチームを作る決心をしました。
人生最大の試練
小松:
レバンガ北海道を設立した2011年、折茂さんの人生の中でも最も試練の時期だったのではないですか。レラカムイのJBLからの除名処分、東日本大震災で候補となった新規運営会社の撤退など、次々に困難が襲って。そして、自らが一般社団法人を設立し、新チーム「レバンガ北海道」を創設します。理事長に就任した折茂さんは、例をみない選手兼代表となりました。
普通なら諦める状況ですよね。年齢的にも、プロ選手として選手人生の最後をどう過ごすかを考え、他のチームに行くという選択肢もあったはずです。なぜ自分でチームを新しく立ち上げ、率いる決断をされたのですか。
折茂:
実は正直、後先何も考えていなかったんですよ。ただ、これだけ応援してくださる方たちのいる北海道からバスケットボールのプロチームをなくす訳にいかない、その一心でした。
強い想いだけで無鉄砲に新会社を設立しましたが、経営の知識はゼロ。何しろ、実務経験がないので、名刺の渡し方から覚えなくてはいけないレベルでした。トヨタにいた時はイベントや取材対応なんてすべて人任せでしたが、プロになったら、連日の取材にも対応し、子どもたちにバスケットボールを教えたり、地域のイベントに出たりするようになりました。そうすると、色々な人が自分のことを知ってくれるようになったんですね。トヨタ時代は優勝しても、テレビでは数秒しか放送されません。僕のことなんか誰も知らないんですよ。だからフラフラ飲みに行こうが何をしようが、誰も何も言いませんでした。
でも北海道に来たら、街のあちこちで声をかけられるようになったんですよ。なぜだろうって思ったら、イベントにたくさん出演したり、マスコミの方々が色々紹介してくださったりしていたからなんですよね。本当にご年配の方々にも声をかけていただいて、これは本当にすごいなぁと思いました。
小松:
プロのクラブの影響力は大きいですね。そういうことを経験されて、北海道の地でもう一度チャレンジしようと思われたのですね。
折茂:
はい、でも一度潰れた状態からもう一度立ち上げるのって、ゼロから新しく立ち上げるよりも何倍も大変なんですよね。しかもタイミングとして東日本大震災も重なりました。スポーツにお金を出すなんて!という空気もありましたからね。
結局はまったく新しいクラブを作る決断をしました。
マイナスからでも始めるんだ、という覚悟はあったのですが、そのマイナスが予想以上に大変でした。
小松:
慣れない運営に資金繰り、そして選手としてプレーもする。
折茂:
そうなんですよ。本当に毎日がジェットコースターのようでした。実はその頃ちょうど、日本代表に呼ばれていたんです。でもレバンガがあまりにも大変で、日本代表を取るか、レバンガを取るかで悩んだ末に、自分からレバンガを始めたからには、責任として日本代表でプレーしている場合ではない、と思って、代表を辞退し、途中で北海道に戻ってレバンガの仕事をやりました。
小松:
最も大事になさっていた代表を辞したのですね。誰かを探して、運営を誰かに任せるという考えはなかったのですか。
折茂:
関係者の方々は、経営陣を探してくださっていたと思うのですが、3.11の震災で、スポーツどころではなかった。手を上げて始めた私が、投げ出すわけにはいきませんでした。
小松:
2011年の日本の状況を考えると、折茂さんの挑戦は想像を絶します。
折茂:
今考えると、相当無茶なことをやったなと思います。今はもう10年ほど組織を運営しているので、経営のこともなんとかわかりますが、当時は全くわからなかった。逆に経営のことを知っていたら、こんな恐ろしいことはできない、と思っていたでしょう(笑)。
手探りの日々
小松:
選手兼代表なんて、この国で初めての存在ですよね。実際、どのような状況でしたか。
折茂:
いや、とんでもなかったですね(笑)。まず、社団法人という組織そのものを理解していませんでした。社団法人を立ち上げた時は理事長をやっていましたが、他の理事の方は外部理事だったので、みなさんそれぞれの仕事があるので、なかなか集まれない、だから計画が立てられないし、全然前へ進まない。そして社団法人でやるのは限界があると思い、始めて3年くらいで株式会社に切り替えたんです。
小松:
なるほど。株式会社にして、自分がトップになれば、トップダウンで色々決断できますものね。
折茂:
はい、自分の責任で色々動かせばいいと思いましたし、最後の賭けでした。
最初は社員がたったの3人でした。3人で興行からスポンサー集めから、全部やらないといけなかったんです。お給料を支払えない危機も何度乗り越えたかわからない。さらに私は練習もしなくてはいけないし、試合にも出場する。レバンガを知ってもらうために講演活動をしたり、イベントに参加したり、テレビの取材を受けたりしなくてはならない。もう、とてつもなく忙しい日々を送っていました。あの頃をもう一回やれ、と言われても二度とできませんね(笑)。
小松:
当時、私が折茂さんの友人なら、選手をしながら経営なんて無理だよ、もう辞めなよ、と言ったかもしれません。
折茂:
そうですよね。あまりに無謀でした。でも自分が始めたので、自分に責任がありますから。一日一日そう考えて、過ごしていました。
小松:
小松:折茂さんの奥さんは反対されなかったのですか。
折茂:
妻は私の性格を知っているので「もう、全部自分で決めているのでしょう。あなたに任せますよ」と言ってくれました。私が家族に何かを相談する時には、もう決めていることが多いので(笑)。北海道に行く時も、レバンガの代表をやる時も、いつも自分で決めてきました。
小松:
折茂さんを100パーセント理解している素晴らしい奥様ですね。
驚くべきことに、このころの折茂さんは選手としても見事に活躍していました。2011年に通算7000得点、2013年に8000得点、そして2013年から2季連続で、40代でオールスターに選ばれます。
折茂:
バスケットボールをしている時間だけが、経営のことを忘れられる時間でした。コートに立ったら、自分にむかって「他のことはいい、今はプレーだけに集中すればいいんだ」と言い聞かせていました。それがプラスに働いて成績につながったのだと思っています。家にいると、明日のお金どうしようとか、経営をどうしようということばかり考えていましたから(笑)。
小松:
バスケットをしている時間は、経営のことを考えなくていいんだよ。シューターとしての仕事をしていればいいんだよと、自分に言い聞かせていた。
折茂:
そうですね。試合中に経営のことを考えていたら、ボールが目に入らないと思います(笑)。
北海道からバスケを消すな
小松:
折茂さんがそんな苦難の中、日本のバスケットボール界も大転換点を迎える時代に向けて動き始めますね。日本には「JBL」と「bjリーグ」という二つの有力な団体が存在していましたが、国際バスケットボール連盟(FIBA)から「1国1リーグが望ましい」と通達を受けてしまう。紆余曲折ありましたが、川淵三郎さんが初代のチェアマンになって、2016年9月に開幕されることになる新リーグ、つまり「Bリーグ」が誕生します。
折茂:
本当に幸運だと思いますね。Bリーグが立ち上がったことによって、追い風に乗れたというのもありますし、最終的にB1でスタートできたのも、本当に感謝するしかないですね。
小松:
北海道にはプロバスケットボールチームがあるべきだと多くの人が思っていましたし、折茂さんが「自分が立ち上がらないと、北海道からバスケットボールがなくなってしまう」と思ったことへの、バスケファンの後押しもあったと思います。
折茂:
そうかもしれませんね。ありがとうございます。でも、掛け値なしに北海道のバスケットボールファンのため、という思いが強かったです。
小松:
そして選手としても、得点や3ポイントシュートの記録を伸ばし続けています。
折茂:
ありがとうございます。記録は結果のひとつにすぎませんから、今はまだ何の感慨もありません。あんまり数字にはこだわっていなくて、こだわっているのは、自分のプレースタイルとして得点を獲ることだったので、その積み重ねが数字につながっているんだと思います。まあ、現役生活を終えてから、その時に「ああ、ここまで積み重ねてきたんだな」と実感するんでしょうね。
小松:
けれど、Bリーガーとしての在り方、日本代表としての在り方を、それを言葉でなくてプレーで示された結果が、あの数字なんだと思います。
折茂:
私は、それしかできませんでしたから。自分にできることしかやりませんし、私は他の選手に比べたら、特別な才能や秀でた能力があるわけでもないですし、人一倍考えて、何をするべきか、と愚直に歩んできただけです。あとは決断してやり切ること。そこが一番大切にしてきたことかもしれませんね。
小松:
そしていよいよ、現役生活にピリオドを打たれることを決められました。実際、周囲の反応はどうでしたか?
自分がいなくても回る組織を目指して
折茂:
レバンガのチームメイトには、ロッカールームで「今シーズンで引退するからよろしくね」と伝えたんです。「え?それで終わりですか?」という反応でした(笑)。
小松:
まあ、なんてあっさりとした。他の選手が「辞めないでください」と取り囲んだ、というドラマはなく?
折茂:
全くないですね(笑)。色々チームメイトは思うことはあると思いますが、プロは、個々、それぞれですから。一選手として幕を引くだけですから、それはそんなに特別なことではないから、自然とパパッと終わらせたかったんです。
小松:
折茂引退という感傷に浸るのでなく、これからのレバンガをみんなに作って欲しいという思いがあるのですね。
折茂:
もちろんそうです。私はレバンガというチームの象徴のような存在としてずっとやってきました。やってきてしまった、ともいえるかもしれません。そこから一つ上の段に上がるためには、私のいないチームが当然でなければなりません。
小松:
寂しいですが、それがチームの進む道ですね。
折茂:
クラブが今季で3期連続黒字になり安定もしてきて、チームに予算が生まれて、いい選手を獲得できるようになって、若い選手も入ってきて、レバンガにとっては、最高の時期を迎えています。
ずっと私が象徴でありつづけることはできません。レバンガ北海道というチームの未来のことを考えると、私が去ったクラブが、さらに輝くと信じていますよ。
小松:
レバンガ北海道の歴史は始まったばかりですね。
折茂:
そうなんです。ここからがスタートで、どんどんレバンガ北海道の素晴らしいところが受け継がれて、地元でさらに愛されるチームであればいいなという思いしかありません。
小松:
レバンガ北海道で一番印象に残っているゲームがあったら教えてください。
折茂:
そうですね、やはり、2018-19シーズン最後の横浜ビー・コルセアーズとのB1残留を掛けたプレーオフは衝撃的でしたね。ファイナルを戦っている時よりも、緊張感が高かったです。絶対にチームを落としてはいけない、その土俵際まで立たされたことは、今まで経験したことがないですから。
小松:
あの試合に勝ったことはチームの財産になりましたね。
折茂:
はい、二度と経験したくはないですが、貴重な経験となりました。
プロである以上、年齢なんて関係ない
小松:
アスリートは、年齢を重ねるにつれ体力が落ちてきて、出場機会も減りますよね。折茂さんもそうだった。トヨタ時代、30代後半になって、1ゲーム20分しかプレーするチャンスがない。すると、20分しか動けない体になっていった。でもプロを目指して北海道へ行き、自分がやるしかない、という環境になると、30分でも40分でも戦える体と気力はすぐに戻ってきた。折茂さんは以前そうおっしゃっていたのですが、アスリートのポテンシャルってすごいんですね。年齢は関係ないんですね。
折茂:
年齢は関係ないですね。私の運が良かったのは、この年齢まで試合に出られたことです。当然色々な要素はありますが、そこが一番大きなポイントです。多くのアスリートを見ていますが、年を取ると出場機会も少なくなり、試合の勘が鈍り、体力も落ちていき、結果が出なくなり、やがて引退というパターンが多いですよね。
私の場合は、トヨタにいた時にプレータイムが半分ぐらいになっていって、北海道に移籍した時は中心選手のような形でプレーさせてもらえたので、毎回の試合で30分以上出場するようになり、最初はとてもキツかったのですが、人間の身体ってすごいですよね、だんだん慣れて来るんですよ。
その時に私が思ったのは、これから先、どんなにきつくても、どんなに辛くても、やり続けないとダメなんだ、ということでした。ですから私は、今季もどんなメニューがあろうが、全部、若手と同じ量のメニューをこなしていきます。そうすれば身体が動くんです。年齢を重ねると動けないと言ったり思ったりしたら、本当に動かなくなってしまうんですよ。
小松:
折茂さんの同世代のビジネスマンに、声を大にして伝えたいメッセージです(笑)。
折茂:
私は、「世代交代」という言葉が嫌いなんですよ。49歳だろうが50歳だろうが、今年大学を出たばかりの22歳の選手だろうが、同じプロ選手ならば、同じ扱いを受けるべきです。だから、私は若手育成という言葉も嫌い(笑)。若いから育成期間をもらえるなんて考え、プロとして甘いと思います。
小松:
年齢は関係ないんですね。
折茂:
はい、全然関係ないんですよ。プロである以上は、平等でなくてはいけないといつも思っています。指導者的な観点で言えば、若手育成の必要性ももちろん理解していますが。
みなさんから、引退後はヘッドコーチになって欲しいという声をいただくのですが、私はその役割でチームにかかわることはないと思います。
私は、考え方が、徹頭徹尾、選手なんですよ。だからコーチという立場は向いてないと思います。
小松:
なるほど。納得のような、残念のような…。
シーズン終了後、東京に戻ってくることはお考えですか。
折茂:
いや、それはないですね。もう東京は落ち着かないです。北海道が好きですね。北海道に住んでしまうと、もう東京には住めないですね。
小松:
プライベートも仕事も、バスケットボールもすべて、北海道に捧げているんですね。折茂さんを訪ね、札幌へ遊びに行きたいです。
折茂:
いつでもいらしてください。大歓迎です。
小松:
本日は本当にありがとうございました。
折茂:
こちらこそ、ありがとうございました。
(終わり)
小松成美
プロフィール
神奈川県横浜市生まれ。広告代理店、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。
生涯を賭けて情熱を注ぐ「使命ある仕事」と信じ、1990年より本格的な執筆活動を開始する。
真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。
主な作品に、『アストリット・キルヒヘア ビートルズが愛した女』『中田語録』『中田英寿 鼓動』『中田英寿 誇り』『イチロー・オン・イチロー』『和を継ぐものたち』『トップアスリート』『勘三郎、荒ぶる』『YOSHIKI/佳樹』『なぜあの時あきらめなかったのか』『横綱白鵬 試練の山を越えてはるかなる頂へ』『全身女優 森光子』『仁左衛門恋し』『熱狂宣言』『五郎丸日記』『それってキセキ GReeeeNの物語』『虹色のチョーク』などがある。最新刊、浜崎あゆみのデビューと秘められた恋を描いた小説『M 愛すべき人がいて』はベストセラーとなっている。
現在では、執筆活動をはじめ、テレビ番組でのコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。
福岡耕造
プロフィール
写真家、映像作家
人物撮影を中心に広告、出版他多くの媒体で活動する。
撮影対照はアスリート、タレント、音楽家、政治家、市井の人々など多岐にわたる。
代表作品は「島の美容室」(ボーダー・インク)、「ビートルズへの旅」リリーフランキー共著/新潮社)など。
撮影 : 福岡耕造
演出.編集 : 福岡耕造
アート・デレクション : mosh
音楽 : 「Room73 」波・エネルギー