2021/03/05B.HOPE STORY#008

仙台89ERS志村雄彦社長インタビュー

東日本大震災の発生から10年の節目となる2021年、B.LEAGUEは、震災をふりかえり、当時の教訓を次世代へつなげるために「B.Hope HANDS UP! PROJECT supported by 日本郵便」を立ち上げました。活動の中心となるのが被災地に拠点を置く4クラブ。その一つ、B2仙台89ERSの志村雄彦社長(38)は宮城県出身で、現役時代に震災を体験しました。未曽有の大災害から何を感じ、10年がたとうとする今、何を伝えようとしているのでしょうか。

――2011年は仙台(当時はbjリーグ所属)の主力選手でした。震災発生時の様子を教えてもらえますか。

新潟遠征にバスで向かう途中でした。ちょうど、宮城県内のサービスエリアに停車していたときです。僕はバスの車内にいたのですが、横揺れと縦揺れが続けて襲ってきた。止まっているバスが倒れるかと思うくらいの揺れでした。外を見ると、ガソリンスタンドのマークがぐにゃぐにゃと曲がっていました。「これはとんでもないことが起きているな」と感じました。

「もう試合は出来ないだろう」と思いながらも、新潟へ向かいました。中止の正式決定はまだでしたから。車内のテレビには仙台空港が津波にのみ込まれる映像や、海岸沿いのひどい被災の様子が流れていました。故郷がとんでもない状況になっているのに、自分は、大切な家族を残してどんどん被災地から逃げているのではないか。そんな不安がありました。新潟へ着いたのは深夜の1時すぎ。普段なら5時間くらいで着くところが、半日かかりました。地震で高速道路が使えなくなり、一般道を使ったからです。

――どうやって仙台に戻ったのですか。

新潟アルビレックスBBのチーム関係者のみなさんからいただいた救援物資などを積み込み、仙台へ向かって出発しました。山形を経由して戻ったのですが、仙台へ近づくにつれて家屋の被害が目立つようになりました。町並みもどんどん暗くなっていきました。停電していたんですね。到着したのは震災翌日の深夜。いつ仙台市に入ったのか、まったく気付かないくらいでした。

――被災地へ戻り、何を感じましたか。

この震災で1万人規模の人たちの命が失われてしまいました。考えられないようなことが起こって、価値観が変わりました。それまでの生活の中で最優先だったのはバスケットボールでしたが、それが全然違うところへいってしまいました。明日どうやってご飯を食べようか、どう生きたらいいのか、そこを一番に考えるようになりました。

「当分、仙台で試合はできない」とクラブの代表から話がありました。様々な想いが交差する中で、いてもたってもいられずチームメイトやスタッフとともにボランティアに参加することにしました。最初は消防学校で全国各地から寄せられた救援物資の仕分けを、その後、名取市にある避難所では、避難しているみなさんにクラブの応援グッズをプレゼントしたり、子どもたちと一緒にバスケをしたりしました。周囲には船が打ち上げられているような状況で、逆に「応援しているよ」とか「頑張ってね」と声をかけてもらいました。自分はバスケを続けて、この地域に対して何かをやらなければいけないという思いになれました。

――仙台89ERSはそのシーズン、活動休止になりました。志村さん自身は救済措置で琉球ゴールデンキングスに移籍して残りのシーズンをプレーしました。一方、クラブは地元企業による支援やファンによる署名活動によって息を吹き返し、2011~12年シーズンは開幕から活動することができました。

正直に言うと、震災の後、このクラブは絶対に無くなると思っていました。復活できるイメージがわきませんでした。だからこそ、10~11年シーズンに期限付き移籍した琉球では、仙台のチーム名に出てくる「89」を背番号に選びました。これならずっと残していけるから。仙台のことを思いながらプレーすることが、被災地の方の力になるのではないかと思ったからです。

仙台のホーム開幕戦のコートに立って、多くのお客さんが入っているのを見たとき、この街が復興へ向かうためにもバスケを続けようと思いました。自分がお金を稼ぐためとか、仕事だからという理由ではなく、街の人のために、誰かのためにプレーし続けようと。それが仙台、宮城に対する恩返しだと思いました。

――2018年に現役を引退するまで仙台でプレーを続け、その後もフロントスタッフとしてクラブの運営に関わり続けています。震災の後、クラブはどのような活動を継続してきたのですか。

震災前のホームゲームは仙台市中心部で開くことが多かったですが、11~12年シーズンからは被害の大きかった沿岸部でも、試合を行うようになりました。沿岸部での子どもたちを試合に招待する取り組みも続けています。

――20~21年シーズンのホーム開幕戦は、志村社長が震災直後に足を運んだ名取市での開催でしたね。

今年は震災から10年ということで、あの時支えてくださった地域の皆さまへ改めて感謝を伝えるシーズンだと思っています。いくつかある候補地の中から開幕戦が名取に決まったときには、「巡り合わせだな」と思いました。あのとき訪れた名取の人たちに、僕が社長として初めて開催するホームゲームを開くことで恩返しできる、と。オープニングの映像には当時の写真などを使いました。胸にぐっとくるものがありました。

――今シーズンはどのような取り組みを実施していますか。

今シーズンはコロナのこともあり、ホームアリーナで6割(B2)試合を開催しなければならないルールが緩和されています。そこを僕たちはうまく利用して、震災から10年の感謝を伝えるべく、宮城県内全域で興行をすることに決めました。

そして「NINERS HOOP」と銘打ち、試合をするだけでなく、選手が地域の魅力を発信したり、こどもたちが参加できる大会やイベントの開催をしたりしています。もちろん今年も3月11日の当日は、チームみんなで沿岸部へ出向き、黙禱をする予定です。津波で大きな被害を受け、震災遺構となっている小学校での植樹や、鎮魂の祈りをささげるため、仙台市や宮城にゆかりのあるスポーツ選手が協力して「スポーツの力で未来に光を」というキャンドルイベントも開催する予定です。

――被災地クラブだけでなく、今年はリーグ全体でも「B.Hope HANDS UP! PROJECT supported 日本郵便」として震災と向き合う企画を進めています。

全国、世界中に震災のことを発信するチャンスなので、本当に感謝したいと思います。

防災意識の面では、当時はあった危機感や備えが薄れてきています。10年もたつと、僕でさえ「備蓄はどこにあったっけ?」という状況で、「また震災が起きたらどうなってしまうだろう」という思いもあります。当時を知らない子どもたちも増えています。もう1度、見直すきっかけになると考えています。

――20~21年シーズンのホーム開幕戦は、志村社長が震災直後に足を運んだ名取市での開催でしたね。

今年は震災から10年ということで、あの時支えてくださった地域の皆さまへ改めて感謝を伝えるシーズンだと思っています。いくつかある候補地の中から開幕戦が名取に決まったときには、「巡り合わせだな」と思いました。あのとき訪れた名取の人たちに、僕が社長として初めて開催するホームゲームを開くことで恩返しできる、と。オープニングの映像には当時の写真などを使いました。胸にぐっとくるものがありました。

――仙台89ERSは今季、「NINERS HOOP GAME」と題して、宮城県内の子どもたちを対象にエキシビションゲームを行いながら、震災の記憶を風化させない試みをしています。そのイベントの前夜だった2月13日に最大震度6強の地震が起きました。14日の群馬クレインサンダーズとの試合は中止になった一方、子どもたちを招いてのイベントを予定通り実施したのはなぜですか。

イベントの一つに「ディフェンスアクション」というものがあります。バスケットのプレーをしながら防災意識を高めるためのプログラムです。例えば、「津波」と声がかかったときは「高台」と書かれた紙が貼られたポール目がけてドリブルで進みます。プレーと避難行動を結びつけることで、実際に災害が起きたとき、反射的に動けるようにする狙いがあります。前日に地震があっただけに、このタイミングで実施することが、むしろ防災への呼びかけになると思いました。

イベントのもう一つは、子どもたちによる前座試合でした。B.LEAGUEの試合と同じように名前がコールされ、チアリーダーの間をぬって入場するなどプロの気分が味わえる内容でした。彼らにとっては一生に一度のチャンスかもしれません。だからこそ、イベントを実現させてあげたいと職員からも声があがりました。どうすれば実施にこぎつけられるのかと深夜から考え、スタッフも身の安全を確保した上で開催を決めました。

参加してくれたみなさんには楽しんでいただけたかなと思いますし、災害への意識付けもできたのかなと思います。僕たちの本業はもちろんバスケットボールの試合を行うことですが、先頭に立って震災の経験を地域に還元していくことが大切だと考えています。

――被災地以外のB.LEAGUEクラブを巻き込んだ活動も企画されていて、若い選手たちも活動に加わる予定です。そこには、震災を経験していない選手もいます。活動にはどんな意味があるのでしょうか。

スポーツ選手には大きな影響力、発言力があります。いまだとSNSなどで情報を発信することもできますが、一番大事なことは、地域のみなさんと一緒に活動していくことだと思います。そして、世の中のため、地域のために活動していくことで、選手としての価値もどんどん上がっていくはずです。

遠い場所で起きたことは、時間がたてば忘れられていく。記憶の風化は止められません。でも、こうした活動を通じて、1年に1回でもいいから、あのとき起きたことを思ってもらえるだけで、僕たちの力になります。

ディフェンス・アクションをする子どもたち ©SENDAI 89ERS

NINERS HOOP GAME ©SENDAI 89ERS