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B.HOPE STORY

ストーリー

2017.10.16 / B.HOPE STORY #2

福島ファイヤーボンズ
「福島と共に。福島のために。」

Bクラブの魅力を社会的責任の側面から紹介する「B.Hope STORY」。第二回は東日本大震災を経てクラブが誕生した『福島ファイヤーボンズ』にスポットをあてた。震災後の原発事故が原因で、外で遊ぶことを制限された子ども達。その社会課題に向き合い、スクール活動からクラブをスタートさせた福島ファイヤーボンズ。スクールをきっかけにプロチームが後発でできるというケースはまれであり、活動区域の福島県が抱える社会課題に寄り添い、向き合っているクラブである。
1校7名でスタートしたバスケットボールスクールは現在では7校250名を超える子ども達が通っている。どのような想いで指導に励んでいるのか、ユースチームヘッドコーチであり、バスケットボールスクールマネージャーの安藤 太郎氏に聞いた。
また、クラブの活動を支えて下さっている行政のクラブ担当者・木元 正幸氏にはクラブをどのように見ているのかを、そして、福島ファイヤーボンズ運営会社である福島スポーツエンタテインメント株式会社 宮田 英治代表にはどのような想いでここまでクラブを存続させてきたのかを聞いた。

【インタビュー対象者】
・福島ファイヤーボンズユースチーム 
ヘッドコーチ/スクールマネージャー 安藤太郎氏

・福島県企画調整部地域政策課 
主任主査 木元 正幸氏 
所属はインタビュー当時

・福島スポーツエンタテインメント株式会社 
代表取締役 宮田 英治氏

福島ファイヤーボンズユースチーム 
ヘッドコーチ/スクールマネージャー 安藤太郎氏 インタビュー

-子ども達のニーズに応えるために-

■スクールコーチになったきっかけは?

安藤:福島県は、東日本大震災で被災地という扱いになり、原発事故直後は溢れる情報も何が正しくて何が間違っているのかもわからず、不安な日々を過ごしていたと聞きます。 そこからしばらくして、クラブの宮田代表からスクール開校の話をされたのを覚えています。 宮田代表の想いは、屋外での活動を制限された子供たちに屋内での運動の場を提供したいというものでした。
その想いから、スクール活動、そしてユースがスタートしました。

最初は簡単な『運動』の普及でした。遊び場を制限される子ども達の運動量を確保する為に、バスケットボールで体を動かすことを目的とした活動が主であり、難しいバスケットボールの技術はなく、楽しんで運動してもらうプログラム作りに力を入れたのを覚えています。 『運動』の普及が進むと、バスケットボールを知り、楽しみを覚えた子ども達からうまくなりたいと『強化』を求めてくる声が増えてきました。子ども達のそのニーズを実現する為にユースの取り組みを本格的に立ち上げました。

■現在ユースチームにはどのような子ども達が所属していますか?

安藤:クラスはU9からU12,U15があり、U9には6名、U12には14名、U15には15名 が所属しています。
2017年3月現在
U15クラスには福島県選抜が4名所属している

皆、将来トップチームへの所属や世界で活躍することを目指してバスケットボールの技術を学んでいます。
ユースの成り立ちは、スクールから展開したヒエラルキーの上層であり、もっと本格的にバスケをやりたい子どものニーズに即したプログラムを組んでいるつもりです。 練習にも福島ファイヤーボンズトップチームのヘッドコーチや選手が来たりすることもありますし、子ども達も一生懸命練習しています。

教える側として拘っているのは、課題のレベルです。高すぎても低すぎても良くないと考えています。 何事にも通ずるものがあるのですが、「挑戦したい」という子ども達の前向きで真っ直ぐな気持ちを大切にしていきたいと思っていますし、このユースチームからゆくゆくは日本代表が誕生してくれることを夢見ています。


  • 練習開始の掛け声


  • U12クラスに通っている子ども達

福島県企画調整部地域政策課 
主任主査(地域政策担当) 木元 正幸氏 インタビュー
所属はインタビュー当時

-「福島ファイヤーボンズ」は福島県の『顔』になってもらいたい-

■福島県は福島ファイヤーボンズの存在意義や存在意味をどのようにみていますか?

木元:震災後、福島県にプロバスケットボールクラブが出来たことは、大変素晴らしく、また、大変嬉しいことでした。困難に直面している時にスポーツというものが、明るい光を指してくれるのではないかという希望を感じたのを覚えています。
実は私の家族も被災し、自分の子どもも周囲の子どもと同様に運動をしなくなったんです。そんな時に、子どもがバスケットボールと出会い、地元のスポーツ少年団に週3回通うようになりました。最初に通った日から、家に帰ってくる子どもの目の光に変化を感じたことを覚えています。バスケの、そして、スポーツの力を私は身内の変化によって実感しました。クラブには、子ども達が元気になれるシンボル的存在に成長して欲しいと思っています。

■行政が行っているクラブへのサポート事業はどのようなものがありますか?

木元:大きくは4つあります。
1. サポーティングマッチ開催事業:福島県が冠スポンサーとなり、ホームゲームのオープニングやハーフタイムで福島県のイベントや県政情報などをPRしています。 2. ふくしまの元気発信事業:クラブがアウェーに行った際、福島県の魅力を伝えてもらうため、パンフレットの配布や県産品のプレゼントを行ってもらっています。 3. 「クリニックキャラバン」※バスケットボール教室の委託事業:ファイヤーボンズのスクールがない地域へ選手を派遣し、バスケットボールの楽しさや、体を動かすことの大切さを伝えてもらっています。この事業は子ども達の笑顔が大変印象的な事業です。子ども達の見たこともない笑顔を見ることができます。そして、選手から書いてもらったサインを皆大事にしているんです。それを見ると、選手の力はすごいなぁと改めて感じます。 4. 施設利用料の支援:クラブがホームゲームで「県営あづま総合体育館」を利用する場合、利用料金について支援をしています。プロチームが興行で使う時間帯のうち、プロ料金とアマチュア料金の差額を行政がサポートする取組みです。

■これまでクラブが取り組んだ活動で印象に残っている活動はなんですか?

木元:学校訪問や地域イベントへの参加が印象に残っていますが、選挙広報の際に投票促進キャンペーンに選手が参加してくれました。バスケ以外の活動でも積極的に参加してくれたことに感謝しています。今後もそういった取り組みにおいても福島県の顔となって協力してもらいたいという想いがあります。福島ファイヤーボンズは、福島県のためにこれからももっといろいろなことができると思うんです。例えば、県民運動のテーマ『健康』をめざし、県民の体力向上の為に様々な場面で協力して欲しいと思います。
震災後、外で遊べなくなった子ども達の肥満度が高くなりました。それは明確に数字に表れました。行政としても手を打たなければならず、子ども達に屋内で運動する習慣を身に着けてもらう必要がありました。地元にファイヤーボンズがスクールを作ってくれて、さらにプロチームが出来たことで、積極的に体を動かしたり、試合を観戦する楽しみが生まれました。これからもこの活動が続いて行くように、行政としてもクラブを支援していきたいと思っています。

福島スポーツエンタテインメント株式会社 
代表取締役 宮田 英治氏 インタビュー

―今の福島、現実の福島を発信する―

■クラブの成り立ちや立ち上げの想いなどを聞かせて下さい。

宮田:福島ファイヤーボンズは今シーズンで4シーズン目のクラブです。クラブを立ち上げるきっかけは、東日本大震災でした。当時、私は専門学校の教員でした。震災後、たくさんの報道が日々飛び込んでくる中で、私の目に止まったニュースがありました。2012年12月に文科省から発表された肥満率のニュースでした。その内容は福島県の子ども達が肥満率全国1位になった、というものでした。その時、そのニュースを見て思うものがあった。震災で屋外活動を制限される中、大人も子どもも運動不足に陥っているということがすぐにつながりました。
そのニュースがきっかけで、最終的には福島ファイヤーボンズが誕生することになるのですが、その時はそんなことは全く思いませんで、ただただ子ども達に運動できる場所を提供できないか、という想いだけでした。それで始めたのがバスケットボールスクールでした。バスケットボールであれば、屋内でできる。その環境を活かそうと思いました。当時のbjリーグに、勝つために教えるのではなく楽しみながら体を動かすカリキュラムがあることを知り、福島に展開させることを決めました。2013年6月に第1校目が開校したのですが最初のスタートは7名でした。
期待半分不安半分で、初めてスクールの練習を見に行った時、印象的だったのは楽しそうに遊んでいる子ども達の笑顔だったのを今も鮮明に思い出せます。
そこからプロチーム構想が始まっていくのですが、リーグ参入申請まで実は3ヵ月しか猶予期間がありませんでした。その期間、ものすごいスピード感で駆け抜けました。そんな無茶な挑戦をしたのは、ユースヘッドコーチの安藤氏も話していたように、福島県内にもプロチームのニーズが湧いてきたからでした。バスケットボールに出会い、面白さを知り、うまくなりたいと思った先に、プロの技術が近くで見られる環境を求められるようになりました。正直、経営のノウハウもない教員だった私は、震災直後のこの福島という地でクラブ運営ができるのか、不安だらけでした。
しかし、震災後1年経ち、2年、5年、10年と経過した後の福島県がどうなっているのかが見えなかった。人口が200万人を切ったことも知っていました。その福島を背負って立つ20代30代の若者がどれだけこの先福島県に残っていくのかもわからない、仮設住宅に住む人たちがどうなっていくのかも何も見えない中、なんとか明るい兆しがほしかった。いてもたってもいられなかった気持ちがありました。

■ここまでの歩みを振り返っていかがですか?

宮田:まだまだ試行錯誤を繰り返しています。「福島県にファイヤーボンズがあって良かった」と言って頂けるのはこれからまだ先10年後だと思っています。そしてその10年も私たちは復興と共に歩んでいきたい、そう思っています。
福島ファイヤーボンズのクラブの中心には「どうやって地域に貢献していけるのか。」というものがあります。バスケットボール以外の切り口でも福島の為になることにどんどん取り組んで行きたい、という気持ちがあります。
福島県はまだまだ震災前にはまだ戻っていないと思っています。例えば、小名浜漁港もまだ試験運用の状態。しかし、この6年という歳月の中で、行政やJA、各種団体や有志の皆様の力でここまできたと思っています。

風評被害という言葉は福島県の外の人が使う言葉。中にいる人間は起こったことを風化させてはいけないと思っていますし、私たちは『今の福島、現実の福島』を発信することを続けていくことが大切だと思っています。完全復興までにはまだ時間が掛かりますが、間違った評価はされたくない。 福島ファイヤーボンズはこれからも『今の福島、現実の福島』を伝えていく役割を担っていきたいと思っています。

そして、福島ファイヤーボンズが5年10年、100年この地で残っていく為に、プロスポーツの楽しみ方をもっと広げていかなければいけないと思っています。福島県内で、県民の皆さんの日常生活の会話に上るクラブになりたい。その文化を作っていきたい。それができた時、初めて福島県の皆様に感謝されるスポーツクラブになるのだろうと思います。